2015年04月04日(日)

復活祭の礼拝メッセージ


《ヨハネ 20:19-22》

19 その日,すなわち週の初めの日の夕方のことであった.

弟子たちがいた所では,ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが,

イエスが来られ,彼らの中に立って言われた.

「平安があなたがたにあるように.」

20 こう言ってイエスは,その手とわき腹を彼らに示された.

弟子たちは,主を見て喜んだ.

21 イエスはもう一度,彼らに言われた.

「平安があなたがたにあるように.父がわたしを遣わしたように,

わたしもあなたがたを遣わします.」

22 そして,こう言われると,彼らに息を吹きかけて言われた.

「聖霊を受けなさい.



私たちは,不思議なことに,いのちについて,

大切で尊ぶべきものと思いつつ,

何故そうなのか,尊ぶべきなのか,

どれくらい大切なのかと聞かれると,答えることができないですね.

それは,なぜなのでしょうか?



聖書によれば,私たち人間は,

アダムとエバが善悪の知識の実を食べ,

この世界に死が入った時(即ち堕落した時)に,

神様との関係が損なわれ,

創造の初めの良い状態が失われて見えなくなり,

必要なあらゆるものに欠乏した状態になった

と言われています.

いのちを大切にするべき理由が,分からない状態も,

この時に起っています.

それで,私たちは,いのちの大切さについて,

創造主なる神様から明らかにしていただかなければ,

知ることができない状態なのです.



では,いのちは,何故尊ぶべきなのでしょうか? 

どれくらい尊ぶできなのでしょうか?



私たちはそれを考えるために,

私たち人間のお互いの営みを横並びで見ています.

そして,人間の行動を調査したり,様々の宗教の教えを読んで調べたり,

比較したりします.

その姿は,聖書の言葉によれば,

善悪の知識の実を食べる営みを重ねている状態なのです.

そして,欠乏して見えないものを探して思惟している状態です.



その私たちに対して,神様はご自身の預言者と使徒をお立てになり,

彼らを通して語りかけて,明らかにして下さっています.

即ち聖書を通して啓示されました.



人のいのちは何故尊ぶべきなのか?

私は,次の聖書の御言葉を思い起こします.



《聖書・創世記9章5節〜7節》

5 わたしはあなたがたのいのちのためには,

 あなたがたの血の価を要求する.

 わたしはどんな獣にでも,それを要求する. 

 また人にも,兄弟である者にも,人のいのちを要求する.

6 人の血を流す者は,

 人によって,血を流される.

 神は人を神のかたちに

 お造りになったから.

7  あなたがたは生めよ.ふえよ.

 地に群がり,地にふえよ.」



上の聖句から,人のいのちは,

なぜ尊ばれるべきなのかを,知ることができます.

それは,神が,人を創造されたからであるからです.

しかも,人は,神ご自身のかたちであるからです.

更に,そのような人のいのちの値は,

人のいのちでしか,支払うことができない.

禅被造物をまとめて差し出しても,

人のいのちは,買い戻すことができない.

他の何ものも,人のいのちに換えることができない.

人のいのちは,それほどに値高く尊い.



更に,人のいのちの尊さは,

神様が御言葉によって,教えて下さらなければ,分からない.

即ち,神が啓示して下さらなければ,知ることができない.



更に,人のいのちを尊ぶことは,神様からの要求である.

私たちは,善悪の知識の木の実を食べて以来,

あらゆる必要なものに欠乏ている.

そして,現実に,自我の活動によって見出すことが,できないでいる.

その私たちの必要をご存知の神様は,

私たちに,人のいのちを尊ぶことを要求することにより,

人のいのちを,どれほどに尊ぶべきなのかを,

明らかにされた.

更に,神様から,この要求が無ければ,

私たちは,人のいのちの尊さについて,知ることができなかった.

人のいのちの尊さは,神様から私たちへの要求によって,

私たちが知るに至ったのです.



私たち人は創造主なる神様に似せて創造されています.

神様が,私たちを創造されたお方です.

そして,私たちの全ての必要を良くご存知です.

更に,私たちの必要の全てを満たすものを持っておられます.

私たちを,いのちの豊かさに満ち満ちた方向へと繁栄させるために,

それらの御手にお持ちのものを,私たちの上に注ぎ,

必要を満たそうとされています.

それゆえに,愛し敬うべきお方です.



そしてそのお方が,私たち人間を,ご自身に似せて,

神様の霊をもつ生きた存在として,創造されました.

そして,神様がお造りになられたこの世界で,

神様がそれらを守り,いのち豊かな姿へ養う御業を,

神様とご一緒に行う存在として,お立て下さいました.

それ故に,私たちお互いのいのちは

尊び大切にするべきものなのです.



次に,人のいのちはどれくらい大切なのでしょうか?

それについて,イエス様が仰せられた次の聖句が思い起こされます.


《マタイ 16:26》

26 人は,たとい全世界を手に入れても,

まことのいのちを損じたら,何の得がありましょう.

そのいのちを買い戻すのには,

人はいったい何を差し出せばよいでしょう.

(※ 「まことのいのち」について 《ルカ 9:25》 では,

   「自分自身」と表現されています.

   「自分自身は,まことのいのち」を指していると思われます.)


ここでイエス様は,人のいのちを全世界よりも大切なものとされています.

更に,もしいのちを損じたら(即ち死すれば),何をもって,買い戻せるか.

即ち,いのちを取り戻し,生き返らせることができるか.

造られた全世界の全てのものを集めて代償としても,

人のいのちは,買い戻すことができない.

即ち,生き返らせることはできない.

イエス様は,いのちを,それほどに高価で大切なものとされています.



《詩篇 49:7 - 12》には,買い戻すことの困難さが語られています.

7 人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない.

自分の身のしろ金を神に払うことはできない.

8 ――たましいの贖いしろは,高価であり,

永久にあきらめなくてはならない.――

9 人はとこしえまでも生きながらえるであろうか.

墓を見ないであろうか.

10 彼は見る.知恵のある者たちが死に,

愚か者もまぬけ者もひとしく滅び,

自分の財産を他人に残すのを.

11 彼らは,心の中で,

彼らの家は永遠に続き,その住まいは代々にまで及ぶと思い,

自分たちの土地に,自分たちの名をつける.

12 しかし人は,その栄華のうちにとどまれない.


さて,神様は,私たちを愛され,ご自分の御子を買戻しの代価とされました.

造られた全てのものよりも,それら全てをお造りになられたお方のほうが高価です.

そして,イエス様を十字架の身替りの贖いの代価とされたのです.

それにより,全たき買戻しを成し遂げることをされました.

人は,それゆえによみがえりの復活をする永遠の存在として,

神様に受け入れられる用意が,なされています.


《ヘブル 7:24-27》

27 しかし,キリストは永遠に存在されるのであって,

変わることのない祭司の務めを持っておられます.

25 したがって,ご自分によって神に近づく人々を,

完全に救うことがおできになります.

キリストはいつも生きていて,

彼らのために,とりなしをしておられるからです.

26 また,このようにきよく,悪も汚れもなく,罪人から離れ,

また,天よりも高くされた大祭司こそ,

私たちにとってまさに必要な方です.


上の聖句においても,人のいのちは値高いものであること,

それゆえに,神様が,キリストの身替りの贖いによって,

完全に救う(買い戻す)御業をなさったことが,明らかにされています.



このように,神様は,私たちを,御子イエス様の十字架の贖いによって,

ご自分との永遠のお交わりの中に,値高く,また,厳かで

失われてはならない者として,お立て下さっています.



また,聖書は,それが現実的かつ事実的な裏打ちの在る

「真」であると告げ,その証として,

イエス様が十字架の上でお亡くなりになられ,

墓に収められてから三日目に,よみがえりの復活をされたことを,

証言しています.

更にまた,聖徒たちの体が生き返ったとも

証言しています.(参考:マタイ27:50-53)


神様がこのように,私たち人間のいのちを,

尊び大切にしておられるのですから,

私たちは,人それぞれのいのちについて,

あいまいな根拠に基づいて,軽々に取り扱うことをしてはなりません.

むしろ,私たちは,お互いに対して,

相手のいのちが豊かになることを求めて,

神様とご一緒に,神様から私たち一人ひとりに与えられている賜物を用いて,

共働してゆくことが,求められています.



しかしながら,私たちは,過誤を通して,

自分には人間として本来あるべき姿が失われていることを知るものです.

それ故に,神様が,御子イエス様の十字架の身替りを通して,

あたかも罪穢れ一点も無い神の御子であるかのようにして下さる

贖いの御業をして下さいました.


そのようにして,神様は,私たちがご自分のみもとに,

永遠に一緒に居ることをお求め下さり,喜んで受け入れてくださっています.

復活祭のこの朝,「平安が,あなたがたにあるように.」と

語りかけるイエス様の御言葉を,

ご一緒に,「私」への御言葉として,お受けしてまいりましょう.

そして,復活祭に始まる一年の歩みを,

神様とご一緒に,神様がお造りになられたお互いのいのちを尊び,

大切にすることができますように,神様に祈り求めつつ,

ご一緒に,歩んでまいりましょう.


私たちの歩んでいく先には,確かな希望があります.

神様の御言葉は,仰せられた通りに現実となるという特徴を

持っているからです.

ですから,たとえ,私たちが,今は,行き届かない姿,

不十分な姿であったとしても,神様に仰ぎ求めるならば,

神様が,目に見えない御手によって,私たちを,

行き届かないところの無かった,全く十分である,という姿へ,

導き入れて下さり,成就して下さいます.


皆様の上に,ご復活のイェス・キリスト様からの

平安が,豊かにございますように,お祈り申し上げております.


      Weblog 2015.04.02 ⇒

      ← 戻る