2015.05.25.(月)

全ての人は強い欠乏感の中にいるのでは.



次の聖句はそれを告げています.

 《聖書・創世記 3章6節》

 6 そこで女が見ると,その木は,まことに食べるのに良く,

  目に慕わしく,賢くするというその木はいかにも好ましか

  った.それで女はその実を取って食べ,いっしょにいた夫

  にも与えたので,夫も食べた.

 7 このようにして,ふたりの目は開かれ,それで彼らは自分

  たちが裸であることを知った.そこで,彼らは,いちじく

  の葉をつづり合わせて,自分たちの腰のおおいを作った.



上の聖句は,神様に似せて神様によって創造された人間が,

その時にもっていた神様との交わりと健全さを失った瞬間に

ついて伝えています.



「裸」は,あらゆる必要が欠乏している姿です.

その必要は,当初,満たされていたものであり,

それゆえに,人間の存在の前提となっているものです.

ですから,満たされているべきもの,

本来,満たされていなくてはならないものです.



そのようなものが,神様との関係といっしょに,失われている.

それが私たちお互いの姿と状況であると思われます.

更に,その“欠乏”のゆえに,のろい(憤りと排除)が

人と神,人と他人,人とその人自身,人と自然環境との間に,

起こっている.

そのように,上の聖書の御言葉の前後から知ることができます.



私は,その“あらゆる必要が欠乏した姿と状態”を,

お互いが持っていることを,踏まえて傾聴をすることは,

「真」であると思います.

そして,傾聴をするに当たって,共感をする際の

健全な視点でもあるとも思わされます.

それと言うのも,次の御言葉があるからです.

 《ローマ 12:14 - 15》

 14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい.

  祝福すべきであって,のろってはいけません.

 15 喜ぶ者といっしょに喜び,

  泣く者といっしょに泣きなさい.



それは,来談されている方の「いのちの尊厳」を認めて養護する上でも,

必要な視点であるとも思わされます.



更に,「欠乏」して目に見えなくなっているものについて

気付く,糸口が起こってきます.

これは,必ずしも,得ようとして得られるものではありません.神様の恵みですね.

糸口が訪れると,小さなことですが,「できること」に目が向くようになります.

すると,やってみようという心の動きが出てくるようにもなります.

それらのことは,来談されている方が,無理なく自分のペースでゆっくりと

進んでいけるように配慮することが,必要です.

それを一つ成し遂げると,更に,「できること」が見えてきます.

それらを,ご本人が無理の無い自分のペースで繰り返していくと,

広がりも出てきます.そして以前には「できない」と思っていた

ことまでも,別の見方から,できるようになる経験すら起こります. 



けれども,人の心の変化は,波のようにゆり戻しがあります.

また,玉ねぎのように,幾層にも,様々な様相が重なっています.

ですから,思い掛けない躓きも,現れてきます.

それらを越えていくために,大切なことは,神様が愛と祝福を

成就なさろうとして,寄り添いを貫いていらっしゃることを,

ご本人が忘れないように,配慮することです.

そして,もし得られた経験が活かされるならば,

「ウツになるのも良いものだ.また,ウツになることが楽しみだ.」と

言えるようにさえなります.そのように,病に支配されないで,返って

活用するくらいになります.そこまで行くことができますね.

素晴らしいですね.



以上のことは,来談された方が医師の治療を受け続けている

  ことを前提として,お分かちしています.また,臨床心理士など

  の専門家の方とは違い,小さな経験をお分かちさせて頂いて

  いる次第です.医師の治療を受けている方のために,

  素人が,家庭でできる配慮の一つの例のように位置づけて

  ご覧頂ければ幸いです.

  また,聖書になじみの無い方へ聖句を根拠として挙げる形で

  接すると,ご本人が既に混乱しているところへ課題を増やす形に

  なります.こころに大きな負荷がかかっている所へ,更に,負荷を

  掛けることになります.

  ですから,来談される方が,知っていたりやっていたりする事柄で,

  辛さのゆえに,見過ごしている事柄に目が開かれるような配慮を

  行うようにして,それにより,自ずから気付いて頂けるように

  配慮する形で,傾聴をする姿勢で接するようにしています.



これまで,傾聴をさせて頂いている中で,折々に,感じることですが,

  来談されている方が,自らの内に助けとなるものが無く,外にも助けとなるものの無い,

  心の貧しい状態にあるように感じられます.

  それは自身の原罪に直面している姿でもあると思われます.

  更に,その姿のままに,イェス様を求めて,御許に行った人々が,

  「心の貧しい者は幸いです.」と

  祝福されています.

  私は,そのような状態の方に,傾聴をして寄り添い続けることは,

  御父が,行っているところを,ご一緒に行わせて頂くことに

  なるのではないかと思わされています.   



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